「中国のアンパンマン」~特別寄稿 by Nakajima

「中国のアンパンマン」 2014.4

中国とは何か?

 現在13億人の人口をかかえ、やがてアメリカをぬいて世界最大の経済大国にもなろうかという国に世界中が関心をもっているなかで、日本人はやや冷ややかなようだ。
はて、どんな視点からアプローチするのがいいのだろう。

 近代の国民国家の標準モデルからみると、今日の中国はかなりズレているだろう。
政治的には、国民が選挙で選んだ議員が国会を通して国政に当たるところを、共産党が指導する人民大会で代行し、党の人民軍を背景にした強権体制が今に続いている。
経済的には、平等社会の実現を目指す共産主義の看板はそのままだが、格差が広がりジニ係数は0.47を超えている。1978年に改革開放政策で大きく方針変更してから35年間で官僚と金持ちの癒着した階級社会が復活したわけだ。
 社会的には、人権を制約された10億人の大衆は生活確保に必死で、1億人を超える中上層階級でも祖国からの脱出願望はつよいという。儒教的伝統が諸悪の根源と批判され、一人っ子政策を強制されては豊かな家族生活実現も期待できないだろう。
 環境破壊も深刻で、地球生態系モデルからも大きな警告がでている。水・空気・土壌等の汚染から大規模な国土開発による生態系破壊が拡大している。食品の安全性もふくめて統計には表れない犠牲者は数知れず、癌村は全国に広がり、見放された辺境農民の表情は重い。
 東アジアの大国として近代化した中国の姿がこのように歪んでいるのはなぜか?
香港や華僑の子孫たちを含め、中国の真の近代化と民主化に努力している人々は少なく ないが、その道筋は必ずしも見通しのよいものでない。

 なぜか?ひとつは自分たちの歴史を、まだ中国の普通の人々が語りだしていないからだろう。中国では、いまだ歴史は国定教科書ならぬ共産党公認以外のものを自由に語り継ぐことが乏しいままなのだ。
 一体、蒋介石の国民党軍兵士だった人たちとその家族たちは何のために戦ったのか?内戦の歴史は、共産党側にいた人たちにも納得されるものか、自由に語られなくてはならない。ましてや、日本と提携協力した「漢奸」の子孫たちが売国奴の汚名をはらす機会も与えられず消えていくのでは、勝者の歴史の押しつけでしかないだろう。

 少し歴史をふりかえってみよう。
  まずは77年前の1937年、中国と日本が本格的な戦争をはじめたことが、いまも大きく困難と課題をもたらしていることを、東アジア近代のながれのなかで考えてみたい。

1 .第1次世界大戦と東アジア

 近代はヨーロッパの世界支配の歴史でもある。
 中国では1840年のアヘン戦争から列強の餌食にされ、満州族の清王朝は1911年、辛亥革命によって260年余りの支配体制に幕をおろす。
 しかし数千年来の王朝専制体制から近代的な共和国 の変身は容易でなく、各地に軍閥がうまれ、内戦の時代がはじまる。革命家孫文も大ぼらを実現するにはカ、なかんずく軍隊の力が大切と、中国版富国強兵策を革命ソ連とも連携して強化をはじめる。
 ちょうど第1次世界大戦が勃発してョーロッパ列強の中国に対する横暴、圧力が削がれた時から大きく統一国家実現のうごきが進みだすが、東から日本が「天佑」に乗じて存在感を増しはじめる。日英同盟のもとドイツ帝国の租借地青島を攻撃し、山東権益を譲り渡せと21か条の要求を突きつけ、のちに5.4運動とよばれる救国民族主義運動が全国にひろがる契機をつくるのである。大戦後のベルサイ会議で指導者となったアメリカの提唱する民族自決主義のながれを読み損ねたともいえるが、極東の小国が一等国となったという自己満足の現われであったのであろう。
 今日でも日本の近代化の過程は、列強と同等かそれ以下の帝国主義的野望の実現過程と評価されることが多いが、これはこの頃から生まれたものである。近代列強の世界支配の流れに抗して、極東の島国から巻き返しをはじめた日本が無視できない勢力にまで成長した時に、中国でおこった反日救国運動の動きは、勢力拡大を狙う欧米各国の付込むところでもあったわけだ。

 もともと明治の日本人は中国が往時の威厳をとりもどし、ともに西洋勢力を巻き返していくことを期待していた。しかし眠れる獅子の中国が依然だらしない国であったことが次第に中国軽視の風潮をうみだすのである。日本政府の要求は性急なものであったが、中国の救国運動も扇動的でまた未熟なものであったろう。
 中国にとっても隣の小さな島国が驚異の変身をとげ、明治革命後わずか40年を経ずに大国ロシアを打ち破ったことは、大いなる利益とともに反省をもたらすものであった。
 東京には延べ1 0万人もの留学生があふれ、日本に続き中国を変革せんとする機運がもりあがった。孫文・黄興・章柄麟らの革命派だけでなく、康有為・梁啓超ら体制派も東京を拠点に活動し、大養・大隈らの政界人から宮崎・頭山らのアジア主義者まで広く国民に親中国感情がながれていたのである。それが第1次世界大戦のもたらした大変動により、「中国問題はアメリカ問題である」と内藤湖南はいち早く指摘し、新たな対応が中国も日本もできないまま、共倒れするのでないか懸念したのである。
 文明段階的にとらえれば、両国の近代化の対応とスビードが大きくことなり、日本はもはや先進国になったのに、中国は分裂したままであることが日本人の連帯熱をさげていた。あたらしい民族主義の叫びに対し、戦後首相となった石橋湛山は、小日本主義を主張し目先の利益にとらわれる愚を指摘したが、支持を大きくは広げることはできず、
 中国の日本製品ポイコットの叫びは双方の溝を広げるものとしか映らなかったのである。
 民族主義運動はやがてソ連の支援を受ける共産主義運動と、最強国となったアメリカとの連携をはかる動きとにわかれて、中国の独立と近代化建設の主導権争いのなかで、さらに複雑にすすんでいくことになる。

2 .蒋介石の国民党政権

 孫文の死後、 軍事を託された蒋介石率いる国民党軍は、反共クーデターをおこし国共合作路線を変更、1927年4月、国民政府が南京に樹立される。
 すでに満州には日本が勢力を伸ばしており、関東軍、満鉄を核に一大勢力を築きあげはじめているが、蒋介石はあえて旧清朝揺籃の地にはふれず、まずは強力な軍事支配を満州以南に限定する。中国はまだ完全な独立近代国家といえず植民地、半植民地扱いであり、列強の帝国主義的体質自体はさほどかわっていないのである。それは日本に留学し時代を   読んだ現実的政治家の賢明な判断であったろう。
 蒋介石は国内各地の軍閥をとりのぞいた後、北方のソ連を警戒しつつ共産党勢力を排除、軍政期の国家的統一実現を優先する。浙江財閥の孔祥熙や宋小文を通し米英との連携も大きくするが、日本はいまだ最も有力な協力関係をつくる国としてある。

 この時期に蒋介石がもっとも信頼をよせたのはドイツであった。
 これまであまり注目されてこなかったことだが、ドイツと密接な関係を築き、軍事顧問団を招き国民党軍の近代化を推し進める。これがアジアでの復権をねらうドイツの思惑にも合致し、大きな成果をうみはじめるのである。

 1930年代に入ると、ヨーロッパにも世界恐慌が波及し戦争勃発の暗雲が覆いはじめる。ドイツは第1次世界大戦でうばわれた栄光を回復しようと、密かに軍需生産と軍備の増強をはかり、東アジアにおいても、青島を攻撃し太平洋の島々をうばった旧敵日本に挑むかのように中国再進出にのりだしている。蒋介石自身もドイツ式軍事教育を日本でうけたこともあり、ドイツによる軍事力の近代化を依頼してきたのである。見返りは新しい兵器生産に欠かせないタングステンなどのレアーメタル。1935年にはドイツは中国貿易において、すでに英国、日本を抜いてアメリカにつぐ地位をしめている。日本軍に装備・訓練において格段に劣る中国軍は軍事顧問フォン・ゼークト、ファルケンハウゼン等の全面的指導の下、急速に近代化をすすめるのである。
 100万の人数ばかり多い陸軍を、10万人の精鋭軍に改造しはじめ、中国にとり、第一の敵は日本である、と戦略を授ける。その要点は、毛沢東の人民解放戦線理論にそっくりで、毛沢東のほうが真似たのでないかとさえ、おもえるものだ。
 強靭な敵には、正面攻撃ができないときはゲリラ戦でのぞみ、消耗戦にもちこむこと
だ。中国は広く、奥深い。日本軍が泥沼に足をとられているうちに、国際勢力が日本を攻撃支援に乗り出すだろうからそれまで耐えろと持久戦を教示したのである。
 それでも蒋介石は安内攘外策をとり共産党軍との戦いを優先する。日本との関係は1933年の塘沽協定以来、平穏な時期がつづいており、6次の掃討作戦をへて1935年には共産党軍を延安に追いこむことに成功し、国内統一はほぼ9割以上完成したという。
 このまま事態が推移し、1936年からの軍事産業3年計画が実現していたら、日本との戦いもさけられ、たとえ起こしたとしても有利な条件をもって日本に臨めたであろうともいわれる。さらには第1次世界大戦後のワシントン体制のもと、国際的には孤立していた日本と中国近代化の合意が新たに形成され、満州の大統一もありえた、かもしれない。

3.日中戦争へ

 1937年7月7日の盧溝橋事件はこのシナリオを大きく崩すものであった。本格的な日中戦争の勃発である。これは1931年の満州事変とことなり「日本軍の陰謀」ではなかった。「日本側より中国側のほうが非妥協的で強硬な姿勢をとり、戦争拡大の先手を打った」(P.ジョンソン一現代史(上)P476)ものである。
 前年の1936年12月、蒋介石は配下の張学良に突然拘禁される。西安事件とよばれ、何がおこったのか今も正確にはわからないが、周恩来との妥協が成立し、共産党との第二次国共合作、抗日統一戦線に戦略方針が大きく変更されるのである。
 その国際的背景にはソ連の祖国防衛戦略によるコミンテルンからの指令がある。すでにヨーロッパにおいてドイツによる侵略の脅威は現実化しつつある。ソ連は正面の敵ドイツに備えるため、東からの日本軍の脅威をできる限り中国戦線に貼りつけて軽減したい。スターリンはイデオロギーよりも祖国防衛という軍事上の判断から、統一戦線論を採用し共産党と国民党とをあわせて日本に当たらせる作戦に変更していたのである。
(1935年第7回コミンテルン大会)
 ドイツはこれと逆の立場で、ソ連の正面戦力を少なくさせるために東側から圧力をかけさせ戦力分散を図りたい。本来なら中国がこれに最もふさわしいのだが、現在のカでは日本にはるかに及ばない。やむなくヒットラードイツは国内の強力な親中国派をおさえ、蒋介石と手を切り日本との同盟関係強化を選ぶのである。

 蒋介石は、西安事件を契機になぜ方針を変更したのか。国共合作による統一抗日戦線という民族主義の大義が強調されてきたが、これまでのドイツとの連携協力が打ち切られることが、なにより焦りをもたらしたのでないだろうか。ソ連からの支援をも確認し、隠微な工作は共産党が担当する暗黙の了解の下、最期の関頭の弁を叫んで賭けにでる。
 北京郊外の盧溝橋事件の翌8月、蒋介石はドイツ軍事顧問指導による強固な装備を構築していた上海で、自ら精鋭5万人余を率いて、租界警備に当たる4千人の日本軍に打
ってでる。安徽省広徳から飛立った空軍からは、停舶中の日本艦船と市街地に爆弾をおとし大混乱を引き起こす。しかし淡い目論見は数ヶ月で消え、大量の増派をうけた日本軍は怒りくるったまま首都南京まで進撃、ドイツ大使トラウトマンによる和平仲介も項挫する。
 重慶に退いた蒋介石は、消耗戦のシナリオどおりとはいえ英米の支援によって支えられる地方政府になり、やがて息を吹き返した共産軍(新四軍、八路軍)は抗日戦のなかで確実に勢力を広げることに成功する。国民党は政権を維持するが、財政は借金だらけで近代化の基礎を築く機会を失い、日本が追いやられたあとも復活のチャンスを生かせず、毛沢東にそっくり中国の支配権をもっていかれるのである。
 4年間に流れた人々の生命や財産は今も明らかでない。1941年末までに日本軍の軍人の死者が19万人であることから推定しても、その犠牲は凄まじい数になろうが、国共間の勢力争いに巻き込まれて亡くなった人々の正確な数は放置されたままだからである。

 上海に派遣された、やなせたかし氏(1919生)は戦場での飢えの体験から、アンパンマンをヒーローに描きだす。アンパンは兵士たちの夢にでてくる食物であり、隣人にもひとかじりしてもらい、そして空を自由にとべたら、と想像がふくらんだものだろう。

4.太平洋戦争へ

 1939年9月、ドイツはソ連との秘密協定下にポーランドへ侵攻を開始し第2次大戦がはじまる。翌年5月、仏英にたいし西部戦線を電撃開始するが、イギリスノ踏ん張りに容易に決着は着かない。勝敗の行方を決めるのはアメリカの外交方針にかかっていた。
 ヨーロッパ諸国に比べ、植民地を持たないと自らのモラル優位性を誇るアメリカは新秩序を戦後にうちたてるべく出番をまっていた。表現・信仰・欠乏と恐怖からの4つの自由を民族自決主義とともにかかげ、古い国際秩序をシャッフルして自国中心の新しい秩序を打ち立てる、これがアメリカに与えられた天命destinyというわけである。
 世界恐慌に国内経済建て直し策をひっさげて登場したルーズベルトは、イギリスがドイツ、日本と妥協し既得権益を保持しようとする政策に千渉しはじめる。大統領に三選されたルーズベルトは国民には孤立主義を約束しながら、ドイツがソ連との不可侵条約をやぶって独ソ戦を仕掛ける1941年6月をもって参戦の具体化を俎上にのせるのである。8月には大西洋会談を戦艦プリンス、オプ、ウェールズ号上で密かに開き、英国首相チャーチルから戦後秩序の合意を取り付け最初はドイツに、そして次に日本にたいし露骨な圧迫をかける。
 日本は、そもそも対米戦争をまともには想定していない国であった。しかし対米関係の強化をはかった日独伊三国同盟の締結により、世界の分割支配の野望をヒットラーとともに狙っていると誇張に宣伝され、通商航海条約廃棄、資産凍結から鉄・石油輸出禁止と制裁を強化され、日本をハラキリ攻撃に追い込むことに成功する。真珠湾攻撃ほど華々しく喧伝され、アメリカに大きなプレゼントをあたえた事件はないともいわれる。
 つづいて独ソ戦がモスクワを目前に停滞膠着していたヒットラーは、アメリカに宣戦布告、第2次世界大戦は一挙に、東西に拡大し全世界をまきこむものとなるのである。
 蒋介石にとっては、日米開戦はようやく訪れた朗報であったが、一挙に大陸と太平洋の両側から日本を挟んで潰す戦力はまったくなく、あとの顛末は既述のとおり。
 すでに中国との戦いで国家総動員法をとおし戦時経済体制を完全実施し、国民は疲弊していた日本が、国力で10倍を超えるアメリカを相手に、なお3年8ヶ月もの長期間の戦いをつづけたのはすごいことであったが、そのための犠牲者は250万人以上、そが四分の一が無差別爆撃等による市民であった。さらに原爆が試用されたことは、今日の世界の危うさを大きく招くものであった。

 日本の戦線は大きく広がるが、補給支援のないまま各地に送られた兵士は、戦闘のまえに飢えとの戦いを強いられた。ニューギニアに送られて片腕を失った水木しげる(1922生)は、幼時期の原風景が南の島々に広がることをしり、復員後、妖怪の世界を描きだした。戦後の戦争放棄を支持する日本人の底流にあるものの発見で、アンパンマンにも共通するものだろう。

5.まとめにかえて

 列強に半植民地扱いされてきた中国が、ようやく新しい国家体制を気づき始めた中で始まった日中戦争は、大きく中国の近代化を後退させるとともに、日本を国際的に孤立化させ戦時非常体制に追い込むものであった。背後には独・ソ連・米英等の複雑な国際力学が働いており、蒋介石あるいは日本の政権担当者の無知傲慢をあざわらうかのごとく、連合国と枢軸国のそれぞれの一員として第2次世界大戦に組み込まれていく。

 おもえば、日本の中国進出のきっかけを作ったのが、黄禍論者のドイツ皇帝ヴィルルム2世による日清戦争後の三国千渉の呼びかけであり、ベルサイユ会議での日本の人種平等宣言提言を無視したのが、アメリカ大統領ウイルソンであった。有色人種にたいする偏見はいまでは信じられないほどであり、日本と中国が手を結ぶことは白人優位の近代にあって脅威として感じられていたことも、少しはここに考慮しておくべきかもしれない。

 第2次世界大戦後、新しい世界秩序がアメリカの思惑通りに東アジアでもできるかにみえた。しかし戦争や革命から望ましい秩序が誕生するのは稀である。ルーズベルトは中国を英国、ソ連とならぶ大国のひとつと持ち上げ、国連の常任理事国の席をあたえる。
しかしすぐに内戦が再開し、蒋介石は台湾に追いやられ1949年10月、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言する。
 これは冷戦時代のひとこまにすぎない。1950年に始まった朝鮮戦争は250万人の犠牲をだして朝鮮分断を固定化し、1964年に本格化したベトナム戦争は300万人の人々を犠牲にした。そればかりでない。朝鮮戦争で孤立化した中国は独自の社会主義路線を 強行し、大躍進運動から文化大革命のあいだに数千万人が飢えと闘争の犠牲になった。
 毛沢東思想を理想モデルにポルポト政権下のカンボジアでも国民の1割を超えるひとびとが死においやられた。北朝鮮では今も粛清の恐怖支配と飢餓状況がつづいている。

 戦争と革命の20世紀の歴史はなんであったのか。
 ファシズムに対する民主主義の勝利、あるいは民族解放闘争の勝利として犠牲者を栄光のオプラートにつつんできたが、失敗の歴史としても見直す時期にきているのだろう。

 中国にも数多くいた従軍兵士の中で、日記をつけ漫画をかいた人物はいただろうか。識字率が1割にみたない国では兵士にその余裕はなかったろうが、監獄ではじめて筆をもった阿Qの子孫たちが従軍し、革命歌をうたうなかから、革命中国をみなおすものがうまれていいたはずである。語りつぐ人がいるうちに聞いておねばならない。

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